報恩寺縁起

報恩寺は、もとを要行寺といい、慶長14年(1609年)に建てられたとされています。 その後、寛文6年(1666年)に紀州徳川家藩主 徳川頼宣公夫人 遥林院の 追善菩提の為、息子である 光貞公 が要行寺を報恩寺と改め、一カ所本山とし て寛文9年に小西檀林化主日順上人を招き、寺領250万石を寄進し開山導師としました。日順上人は、朝廷から権大僧都の位を賜り、参内を許されていました。

以来、当山は紀州徳川家代々の菩提寺として、また和歌山城下唯一の『武士寺』として親しまれてきました。最盛期には末寺6ヵ寺、総面積は約2万5千 坪を有する紀州随一の日蓮宗寺院として栄えました。ところが、明治元年(1868年)の勤王運動により諸堂が破壊され、時の貫首で当山第17世本如院日偵上人が左幕藩士に惨殺されるという悲しい事件がありました。近代にいたっても、昭和20年(1945年)7月の第二次世界大戦 時の和歌山大空襲により伽藍は焼失、当山第25世 南妙院日環上人によって再興されるも昭和36年9月に放火により本堂焼失という厄災が続きました。

今日の本堂は、平成11年に大改修・落慶したものです。しかし、焼失を免れた 紀州徳川家御廟所や戦時中の供出を免れた鐘楼は和歌山市指定文化財(史跡・ 工芸品)として、脈々と受け継がれてきた紀州の歴史を物語っています。